まちなみ探偵団「鏝なみ・はいけん」
鏝絵ってなんだ絵柄別に見る地域別に見る地図から見る年代別に見る左官列伝まちなみ探偵事始め鏝絵のうんちく
HOME > 左官列伝
AND OR
島根県内に残る鏝絵    (近代化遺産)
作家別一覧あ行か行さ行た行な行は行ま行や行■ら行■不明

1. 松浦栄吉(1858〜1927)  作品一覧
 安政5年、仁摩町馬路に生まれる。東京で左官職人として活躍していたとき、上海へ外務省の嘱託として領事館建設のため派遣された。そこで英国の左官技術である蛇腹(=ジャバラ、壁と天井の境の飾り)を修得した。当時、日本でジャバラのできるものがいなかったので呼び戻され、大阪で郵政管理局の木造洋館造りの仕事でジャバラを披露した。下関の山陽ホテル、福岡医大、福岡工科大などの仕事をした。彼は伝統的な左官技術に加え、彫刻や新しい技術も修得していることから左官の神様≠ニ呼ばれた。九州の直方駅前では、印半纏の男がズラリと並び、左官の神様を迎えたという。彼の菩提寺である大森町西性寺の経蔵に、見事な鳳凰牡丹が彫刻されている。馬路の実家には、朝鮮の京城や大邱で手がけた建物の写真や、「1927.8.1」の日付の入った葬儀の写真が残されている。葬儀のアルバムを見ると、人力車の台数にも驚くが自動車が列をなしている光景にはさらに驚かされる。


2. 松浦栄太郎(1885〜1945)  作品一覧
 栄吉の長男。東京の父の元で、「一人前になるまでは、親子の縁を切る」と、かなり厳しい修業をしていた。兵隊検査の通知を受けたときも、修業中の彼は考えに考えて、仕事に命を懸けようと支那の営口に逃亡した。しかし、大森の裁判所から度々呼び出しが来たらしい。一応のメドがついた26、7歳の頃、自首して浜田21連隊に入隊した。大正6年、軍艦常磐に徴募兵10人の一人として乗り組む。大正10年に撮った満期記念の写真が残されている。
 「松浦式人造」(洗い出し、研ぎ出し)を考案して左官業界の発展に尽くした。彼も彫刻を得意としており、京城の東洋拓殖株式会社の社屋に施した月桂樹の彫刻は人目を驚かすに十分だったという。因みに普通の人の日当が一円七、八十銭のとき、彼は三円五十銭もらっていた。彼には子がなかったので建築の設計士であった弟の健吉氏が馬路の家を継いだ。彼は、親方として多くの弟子を抱え育成していった。日本中行く先々の現場で、彼を慕う女性が数多くいたとか、浅草の高橋某というやくざの親分が、松浦の組には手を出すんじゃないといって一目置いていたというようなエピソードが伝わっている。

3. 井沼田助(兼)四郎(1845〜1929) 作品一覧
 弘化2年に生まれる。前馬路大工屋、井沼田家に養子に入る。日露戦争のとき広島城跡に大本営が設けられ、彼は左官職人の一人として設営工事に参加し、その栄誉を担って立派な仕事を残した。松浦栄吉より14歳上であるが、同時代を生きた人であり、ともに腕利きの左官として高い評価を得ていた。ある現場で二人が一緒に仕事をすることになり、誰が発案したのか、二人は足場の上で同じ条件のもとにその腕を競うことになった。そして規定の仕事を仕上げたのはほとんど同時で引き分けであった。ただ、栄吉の方が一瞬早く足場から飛び降りたという。両人の腕は伯仲していたことを物語る。彼もまた彫刻を得意としており、自宅の天井の中心飾りに「牡丹に唐獅子」と「五三の桐」が、小壁には「つがいの鶴」が彫刻されている。

4. 兒島嘉六(1867〜1946) 作品一覧
慶応3年、邇摩郡仁摩村(現在の仁摩町)の兒島栄四郎とコヨの次男として生まれた。彫刻に天賦の才を発揮した。明治18年(1885)に、仁摩町西往寺の本堂正面小壁に見事な「」の漆喰彫刻を残している。明治20年(1887)3月31日、鳥取県岩美郡宇部野村(今の国府町)の森田のよの長女いしと養子縁組、同日入籍している。鳥取での足跡は、正運寺住職が残した彼の略歴によるしかないが、技能が優秀で人間的にも優れていたとされ、多くの旧家や寺など具体的な名前が記されている。国府町の森田家には晩年に縁側で孫を相手に作ったと思われる「七福神」や「唐獅子」などが残されている。仁摩町の児島保宅には「鷲」の石膏彫像や児島公夫宅には「大黒さん」の焼き物など若い頃の作品が残されている。国府町の森田家は、既に役場の駐車場となっているが、当時の屋敷地にあった土蔵の「龍」は取り外され残された。嘉六といしが眠る墓所は、衣川や田代が広がり、生きてきた町を望む山の斜面にある。墓碑の正面には「達道明技居士」「梅香貞薫大姉」、左側面には「昭和十四年三月十二日 妻いし 行年七十三才」、右側面には「昭和廿一年五月廿一日 嘉六八十才」と二人の戒名や享年が一緒に刻まれていた。

5. 三嶋健治(1898〜1967) 作品一覧
 温泉津町小浜で代々旅館業を営む家に長男として生まれた。八代めにあたる彼は家業を継がず、左官の道に進んでいる。叔父の三嶋伊作(作品が厳島神社に絵馬として奉納されている)について修業し、漆喰彫刻も学んでいる。旧満州で仕事をしていたこともあるが、主に東京で活躍した。墨田区に居を構え、親方として多くの弟子を抱えて、主に三井物産の仕事を請け負っていた。彫刻も得意で三井物産の重役宅などに施した。現在、小浜の生家には、息子の正信さん(故人)の夫人のイツ子さんとお孫さんの家族が住み、木造3階建ての3階正面の壁に鯛を抱えた「恵比須」が彫刻されている。また、厳島神社の拝殿には「波ウサギ」を彫刻したなかに自画像を入れた面白い作品が奉納されている。また、安田家にはかつて商売をされていたときに造られた「大黒さん」をあしらった看板が健在で正面の壁を飾っている。

6. 寺本元右衛門 作品一覧
 生没年は不詳。温泉津町福波大字吉浦に生まれた。「温泉津むかしばなし」のなかに、「水を飲む龍」という題で名工元さん≠フ話が載っている。
  …………… 
 石見の高野山といわれる、高野寺の経堂の壁に「しっくい」でつくられた龍があります。だれが見ても一目で名工の作とわかるほどのりっぱな龍です。
  むかし、この龍が夜になると、毎晩、波積の岩龍寺滝へ水をのみに出るというのです。歩いたあとは作物はめちゃくちゃになるし、見たものはびっくりして腰をぬかしてしまうありさまでした。
  寺はこまったあげく、龍の両方の目に大きなくぎをうってしまいました。それからというものは、水をのみに出なくなりました。
  この龍の作者は吉浦の寺本元右衛門という名工だったといわれています。この元右衛門はのちに人にねたまれて、「いがなす」(毒草)を食べさせられて精神病にかかってしまいました。それからは吉浦の浜辺の西の端にある穴に住んで、あわれな一生をおくったということです。吉浦の人はこの穴を今でも「元の穴」と呼んでいま
す。
……………
 このむかしばなしにある「龍」は、昭和38年の豪雪で経堂もろとも倒壊してしまってこの世にはない。唯一、写真一枚が残されている。
 実はこの話のなかにある元さんを見た人がいた。鏝絵の調査で、川本町三島の花田定さんにお話を伺っているときに、「私が子供の頃に、元さんちゅう人が、気が違うてワーワー言いながら歩きょって怖かった。師匠より腕が立ったので、その女房に妬まれて毒を飲まされたげな」というショッキングなものでした。

7. 花田末喜 作品一覧
 明治42年ころ、川本町三島に生まれる。五人兄弟(健一、嘉六、末喜、義信、定)の3番目。長男以外はみんな大工や左官になった。
父親の哲三郎も左官であった。川本町笹畑の城納(じょうなん)さんについて修業。川本町の鈩家に婿養子として入る。しかし、3人の娘ができてすぐ20代半ばの若さで亡くなった。因原八幡宮の「」は彼が残した唯一の作品である。「乾くといけないので筵を掛けて作業した。兄は大工もできる器用な人だった」と、作業を手伝った3つ年下の定さんは話す。鈩家(多々良と改名)は現在、末喜さんの孫にあたる清宣さんが食料品店を営んでいる。

8. 伊藤末治(1896〜1978) 作品一覧
明治29年、益田市横田町で、7人兄妹(男5人、女2人)の長男として生まれる。男兄弟は全員左官になった。左官職人の父、新一郎の元で修業する。末治は几帳面な性格で手先が器用な上、絵も巧かった。そのため、彫刻にもその才を発揮し、この辺りにある作品はほとんど彼が手がけたものだ。近くの守源寺に奉納されている龍の扁額には、弟の乙市の名が入っているが実際は末治が手伝ったものだという。
 末治は生涯横田の地で活躍し、日原や津和野など近隣の町へ自転車で出かけていった。 向横田町や白上町に民家の土蔵に同じような龍が壁面を飾っているが、何れも白上町在住の左官・岡崎忠隆さん(55)が造ったもので、弟子の頃末治の元へ仕事を終えてから漆喰を持って習いに行ったそうだ。さらに、末治が使っていた彫刻用の細工鏝を譲り受けている。調査で彼の生家を訪れたとき、次女のツタエさんから尾木家の「鯉の滝登り」の下絵を見せていただいた。左官の雛形集や数々の下絵は、残念ながら本人と一緒に土のなかで永遠の眠りについている。

9. 槙坂治義(1903〜1977) 作品一覧
 温泉津町福波大字吉浦に生まれる。九州・飯塚で温泉津町福光出身の左官、寺敷六治の元で修業。彫刻を得意としていた師匠の指導で、絵が好きだった槙坂自身も彫刻ができた。馬路の左官、前田増太郎と仕事で朝鮮へ行ったこともある。妻子を吉浦に残し東京へ長い間行っていた。
 昭和39年、還暦をすぎたころ故郷へ帰ってきた。そのころ自宅を改築、居間の天井はその時彫刻したものだ。吉浦の敬願寺の経蔵には彼の手による「」が彫刻されている。福光八幡宮には師匠である寺敷六治の作品が奉納されている。

10. 前田勝義(1912〜2002) 作品一覧
 仁摩町馬路に生まれる。「兄弟、親戚もみんな大工だった。親父に大工になれと叱られたが、自分は重いものを担ぐのが嫌だったから」左官になった。鳥取の義兄に15歳で弟子入りし、3年の修行を積んだ後、山陰はもとより九州や遠く満州へ武者修行に出かけた。満州で「松浦式人造」を考案した松浦栄太郎の下で現地人を使って働いていたとき「お前は、人の下でずっと左官するつもりなら、さっさと荷物をまとめて帰れよ」といわれた。弟子入りした頃は、材料を作るところから徹底して仕込まれ、なかなか壁塗りをさせてもらえなかった。「お陰であのときの経験が、後で役に立った」と回想。戦後の混乱期に、36歳で単身上京、真面目な人柄と人一倍の努力と工夫で、大手建設会社から左官工事なら前田≠ニいわれるほどの信頼を勝ち取り、日本を代表する建物を次々と手がけてきた。例えば、霞ヶ関ビルや帝国ホテルなどの初期の高層建築や、最高裁判所などを手がけ、超高層では住友ビルや京王プラザホテルなど、そして最後の仕事は池袋のサンシャイン60であった。かつて霞ヶ関ビルの工事で、コンクリート面のシゴキ、つまり補修材料としてセメントにパーライトを混ぜ合わせたものを考案した。この工法は、塗り厚が薄くて効果が大であることから、後に竹中工法と呼ばれ広く普及した。テレビでも前田さん考案のこの工法が放映されたことがある。
 前田さん曰く「わしらは、上手なんかよう言わんから、腕で評価してもらう。ほかの職人は8時にカバンをぶら下げて来た。わしらは飯場に寝泊まりして、6時にはもう足場の上におった」彼は野丁場の左官で、彫刻とは縁がなかったが石州左官の気質をよく表している。彼が勤めていた原田建塗工業の社員一同から讃歌を贈られている。

一、ミキサーの音 轟々と
技術に生きる 心意氣
朝日に映える 超高層
ビルの現場を 今日も征く
印は原田の 前田班

二、寒風酷暑 ものかわと
艱難辛苦 乗り越えて
われら左官の 先覚者
前田勝義 ここにあり
その名は永遠に 輝やかん


11. 幸田績(1919〜  ) 作品一覧
大正8年3月、大田市五十猛町に生まれる。少年時代、家業の石炭運搬船に乗るが船酔いしやすいこともあって断念。14才で叔父の林藤作を頼って上京、弟子入りする。
 当時の左官業界のトップに位置する亀井組に所属。弟子入りの初仕事が、国会議事堂衆議員議員控え室の壁、天井。次いで昭和9年に明治生命館の1階営業の間の漆喰蛇腹天井を施工。当時から石州左官は重要な仕事を任されており、丸の内のビルのほとんどを手がけたとされる。
 昭和20年、6年半の徴兵を経て復員、戦後の初仕事は、日本銀行仙台市店。当時日当が100円のところ120円もらった。その後、師匠の藤作と原田建塗に移る。原田建塗では馬路出身の前田勝義さんと双璧をなすほど活躍する。最も多いときで50人の職人を引き連れた。直弟子は16人。講談社本館の内壁、皇居の東宮御所や新宮殿などが思い出に残る。昭和61年に引退し故郷に帰り、妻と余生を過ごす。

12. 青木道郎(1926〜1979) 作品一覧
 大正15年益田市横田町に生まれる。父は伊藤末治の末弟、乙市(1900〜1955)。養子に入った青木家は後川を挟んだ向かい側。道郎は男3人、女4人の7人兄弟の長男。左官の父の元で修業する。父が若くして逝ったあと、弟子やら兄弟あわせて10何人いた大世帯を一人切り盛りしていった。
 彼の若いときの作品「龍」が恵美須神社拝殿に残る。その頃の作品が6点ほど存在する。いずれも躍動的で勢いを感じる作品ばかりだ。篠原家土蔵に「唐獅子」と「恵比須」、長谷川家土蔵に「龍」、藤井家主屋の「龍」、同家床の間の「扇に鶴と松」、村上家主屋には「松に鶴と亀」
 弟子たちが独り立ちすると、市内の坂本建設に勤める。坂本建設時代の弟子平川剛さんは、仕事は見て盗んで覚えろと言われたが、急所急所ではちゃんと教えてくれた。優しい人だったと回想。
 平川さんが独り立ちし、土蔵の仕事を任されたとき、師匠に援助を申し出、手伝うという約束をしたまま亡くなった。平川さんの記憶にあるのは、「現場に入るたびに一年生だと思って望め」と言われた言葉だ。

13.品川博(1954〜  ) 作品一覧
 邑南町(旧瑞穂町)に生まれる。中学卒業後、故郷を離れ加古川の長兄の元で左官修業。「左官アート」の世界へ踏み込んだのは、25、6年ほど前。仕事が暇な時、セメントを家に持ち帰り擬木などを作り始めたのがきっかけ。多くの左官職人が転廃業するのを横目で見ながら、余技を楽しむように好きな左官の道を歩く。長男も同じ左官の道を歩む。彼の作品は、浮き彫りの鏝絵から立体的な彫塑まで幅広く、建築の装飾はもとより、植木鉢や花瓶などから、昆虫、動物まで及び、猿のような大きなものから地を這う蟻までさまざま。セメントを彫刻に適した素材に工夫したことが左官アートを可能にした。16年前、鉄筋コンクリート造寺院では日本で最大という兵庫県加古郡播磨町の円満寺五重塔の完成に併せ、その一層目軒下欄間部分外周51bに四季を表現した鏝絵は、同県の技能顕功賞を受ける縁となった。こうした活躍の背景があって、故郷の明覚寺の作品が生まれた。また母校瑞穂中学校で講演を行う。近年、大田市の宮崎公園の公衆トイレの壁面や大田市駅前の駐輪場の外壁などにセメントアートを施す。今年の5月に日本建築仕上学会学会賞を受賞することが決まった。

            ▲このページの上へ